まとまりのない日々

まとまりのない人間ですが

旅行に行った、という話

旅行に行った、という話をしたい。こういう体験系は、鮮度が落ちないうちに書いておかなければ感じたことが逃げていってしまうから。

 

週末に一泊二日で、銚子まで旅行に行ってきた。その時はギリギリ緊急事態じゃなかったからそこはセーフということで。

一人で行ったわけではなくて、恋人とふたりで行ってきた。最近はあまり会えてなかったから一ヶ月ぶりぐらい。なんだか久しぶりで、懐かしかったというか、新鮮だったというか。

 

さて、この季節の調子、お目当ては何と言っても入梅いわしである。6月から7月の限られた時期に取れるいわしは、いかにも丸々としていて、脂がたっぷりと乗っている。とはいえその油もしつこくなく、口に入れればとろけるようだ。銚子ではこの季節に入梅いわし祭りというのをやっていて、いくつかの店が特別メニューを提供してくれるのである。なんと幸せな祭りだろうか!

 

たかがいわしを食べるためだけにわざわざ銚子まで行くというのは少し変わっていると思われるだろうか。二年前ぐらいの冬には、同じ人とふたりで旬の寒ブリを食べるために富山まで行ってきた。富山に行って、ローカル線に乗って漁港に行き、ブリのフルコースを食べ、駅前のシティホテルに泊まった。そんな旅を冬休みにしてきたのだ、という話をある先輩にしたら、わりとひとり旅みたいな旅だよね、そういうのに一緒に行ってくれるような人は大事にしたほうがいいよ、と言われた。確かに、と思った。インスタに載せられるような派手さはないけど、確かに記憶に残るような旅。そういう旅を、これから先も一緒にしていきたい。ちなみにわりと遠くまで魚を食べにいくシリーズは、富山の寒ブリ三浦半島のマグロに続き第三弾であった。次はなんだろうか。三陸海岸のウニとか?早速魚の拡大解釈が始まってるが。

 

旅行から帰る時、帰った後の切なさはなんなのだろう、とよく考える。旅先で出会った人(出会った、まで行かなくても、声をかけられた・すれ違った人たち)とはもう出会うことはないのだろうという思い、その場所に住んでいる人の生活に思いを馳せつつ、でも自分はその生活をすることはないんだろうという切なさ。こういう気持ちになるのは、全てのことは一回きりなのであって、巻き戻すことはできないのだ、ということを、旅行という限られた時間においてより強く意識するからではないか、と思う。ある瞬間の大切さ、かけがえのなさは、過ぎ去ってから初めて気付くから、何度もその瞬間の輝きを振り返ることになるのだろう。

 

また改めて感じたのは、外泊、というかいつもとは違うところに泊まる楽しさである。大人になっても、なんだかワクワクする。しかしながら旅館の夜は難しい。お風呂にも入りたいし、ゆっくり料理も食べたい。星を見に行ったり散策もしたいけど、マッサージチェアで癒されたくもあるし、なんなら卓球もしたい。そんな欲求と、ゆっくりしたい、寝たいという思いの葛藤をしながら夜を過ごすことになる。選択肢がある、やりたいことがいっぱいあるということのなんと素晴らしいことか。

 

旅の終わりには、秦基博の「Sally」という曲が聴きたくなる。

新しい友達や風に出会うためだけじゃなくて

ここで生きていくことを確かめるために旅に出るの

 そう、非日常は終わり、日常が戻ってくる。私たちはここで生きていく、生きていかなければならないのだ。