まとまりのない日々

まとまりのない人間ですが

この気持ちに名前を下さい

やっぱり気持ちは心の中にためておくよりも吐き出した方がいい、というのは真理な気がする。でもその方がいい、というのは相対的な話であって、吐き出したからといって、紙に書き出したからといってそれがゼロになって吐き出した側の心がまっさらな状態になるわけではないし、一時的に軽くなったように感じるに過ぎないのだろう。

そうであっても、誰かに相談する、吐き出すということをできるようにしていたい。それは相手に自分の心の荷物を半分持ってもらうような行為であるとしても、自分がそうしてもらったらそれはいつの日か返せばいいのだし、逆に相手がそういう状態の時に頼ってもらえないとしたら悲しい。そういう、持ちつ持たれつな関係を周りの人とは築いていきたいな、と考えている。こういう考えは、うがった見方をすればいつか自分が優しくしてもらうために人に優しくしているのではないか、となってともすれば自己中心的な考え方に見えてもしまうけれど、まあ本質は、つまりはそういうことである。「情けは人の為ならず」を意図的に戦略的に行っているというか。

 

最近、思い悩んでしまうというか、気持ちが落ち込んでしまうことが多い気がする。その気持ちを書き出すことによって整理しようと思って勢いで始めたのがこのブログなので、ブログの更新回数が多いということは、逆説的ではあるが自分に書くべきこと、外に向かって吐き出すべきことが残っているということであり、それはまだ自分の中に溜まっている悩みのようなものが残っているということだろう。

最近ブログを書いていて思うのは、(このような駄文ではあるが)書くということは、すなわち自分の心と向き合うことであり、それ自体とても孤独な営みであるのだと思う。自分の心の内をさらけ出すのは、例えばテレビを見ながらできるようなものではないし、実家に帰った時にやりたいとは思わない。こうして一人の部屋で孤独にパソコンと向き合ってこそ生まれる文章があるはずだし、そうしてこそ気づく自分の気持ちというのもあるはずである。

 

最近大きなことを立て続けにやり終えて、そこから自分が空っぽになってしまった気がする。今までの生活をほぼその目標に向けて捧げていたというか、その目標のために過ごしていた時間が多すぎたから、今まで自分がどうやって過ごしていたのか見失ってしまったのである。

今まで何食べてたっけ、どこに出かけてたんだっけ、何をしてる時に楽しいと思ってたんだっけ。おまけにこのコロナである。目標へ向かってひたすら走る日々が終わって、時間的に余裕ができたからといって何かができるようになったわけではないし、どこにでも行けるわけでもない。

あと、この落ち込みには自分に対するショックもあるのだと思う。目標に向かってひたすら走っていたという思いはあったが、自分の中でもそれだけにしたくないという思いはあったし、あくまで合格することがゴールなのではなくスタートなのだ、という思いはずっと持っていたし、でも持っていたからこその今の自分との差みたいなものを感じてしまって気持ちが落ち込む、ということもある。

 

ここまで書いて、実は一週間ほど記事を寝かせていたのだが(どうでもいいけど、記事を寝かせると生地を寝かせるって一緒だな)、だいぶん一週間前よりも心が楽になった気がするな、と思った。色々な機関に行って話を聞いてもらったりしていたのだが、どうやら自分の状態はスチューデント・アパシー(学生無気力症)と呼ばれるような症状らしい。大学生には珍しくないことらしく、まああまり重く考えずに、ゆっくり過ごしましょう、ということらしい、いやそれはそれでなかなか難しいのだが、とも思いつつ相談所を後にした。とはいえ、自分の抱えている状態に名前がつくのはとても安心する。「あなたは何やらわからないけど怖い病気にかかっていますよ」と言われるのと、「あなたは〜〜病にかかっていますよ」と言われるのは怖さは段違いである。自分の状態が誰かに理解してもらえた、ということでもあるし、客観的に見ることができる、ということもあるのだろう。それに、検索窓に「なんとなく気力がわかない」と打ち込むのと「学生無気力症」と打ち込むのでは、得られる情報の具体性が違う。まあそういうこともあったりして、アンとなく気持ちは落ち着いたのだが。

 

そんなわけで着地点を見失った。

最近よく聴いているのがMy little loverの「白いカイト」である。聞くたびに初夏の爽やかな風が吹き抜けるようである。もう初夏とか言ってられない暑さだな。オリンピックも始まったし。

 

誰も待ってなくても書き続けようと思うので、よろしくお願いします。