まとまりのない日々

まとまりのない人間ですが

人間の断片、あるいは脈絡のなさについて

ある言葉をネットで検索したりして、そこで出てきたブログが誰に読まれることも目的としていないような、個人的な心情の吐露とかある作品の個人的な考察みたいな内容だったら、少し嬉しくなってしまう。でも大抵そういうブログというのは(いい意味でも悪い意味でも)廃墟みたいなもんで、乾いた風が吹いているような気がする。ブログのデザインも無料のそのまんまのやつだし、アイコンみたいなやつも灰色のNo image である。そして悪いことに、こういうブログは最終更新が大抵3年前とかで、更新されることなく放置されてたりするのだ。

 

こういうブログの筆者たちは今どうしているのだろうか、とたまに想像したりする。死んでしまったのだろうか、消えてしまったのだろうか。否、と願う。きっと本人はこんなブログを書いていたことも思い出すことはほとんどなく、忙しい日々に埋もれて忘れてしまっているだけなのだと信じたい。

しかしそういう、日々に流されて忘れてしまうような、その人の断片のようなものがネットの海を漂っており、時に自分のようなものに流れ着いたりする、その儚さ、というか偶然性がなんとも愛おしいというか、どうしようもなく心惹かれてしまうのである。

そういう人間の営みの必然性のなさ、脈絡のなさ、みたいなものに思いを巡らせつつ。

 

恐いモノ知らずで 時代ははしゃぎまわり
僕と君のすごした ページは破り去られ
歴史には価値のない 化石の一つなるのさ

なんとなく思い浮かんだ、the pillowsの「ストレンジカメレオン」。全てが嘘だったとしても、歴史には価値のない化石になったとしても、手のひらがまだ暖かい。君と出会えてよかった。そんな歌だ。

 

自分が吐き出した言葉も、ネットの海を漂って、誰かに届いたらいいな、と思う。そんな時はこんなやつもいるんだと思って笑ってください。