まとまりのない日々

まとまりのない人間ですが

選んだり選ばなかったり

 

内容を決めずに書き始めてみようと思う。と思ったけど、その場合、タイトルは何になるんだろうか。「名は体を表す」というが、内容のない文章を、それ自体を表象するようなタイトルはあるのだろうか。

 

初投稿の最後に回転寿司を食べに行く、と書いたが、結局回転寿司までたどり着けずに、その手前にある大衆食堂で食べることにした。なんか無性にミックスフライ定食が食べたくなって。その食堂自体は3回目ぐらいだが、いつもそこではアジフライを頼むのでミックスフライ定食は初めて注文した。4人席が多い割に一人客が多かったため、客同士がディスタンスを取ることによって勿体無い埋まり方をしていた。仕方ないけど。

入ってくる人来る人鰹のタタキ定食を頼んでいたので、ここは鰹のタタキだったか、と後悔しそうになったけれど、そんなことで悔やんでも仕方ないし、実際ミックスフライ定食は美味しかった。なぜかししとうのフライが入ってたけど。フライって・・天ぷらならわかるけど。後タネがそのまま入っていて苦かった。今から考えればホタテフライもあるし、珍しいラインナップだったな。

 

何かを決断するのがすごく苦手な気がする。食堂のメニューみたいに、やっぱこっち、みたいな気軽な訂正ができればいいのだけれど、世の中のことはそう上手く気軽に訂正できるようにはできていない。就職すべき会社あっちだったわ、やっぱやめるわ、とかやっぱあっちの人と結婚するわ、みたいなことは現実的ではないのである。まあ結婚の場合にはその選択肢が同時に現れるということは少ないけれど。

昔ある性格診断をした時(こういうのをやりたいと思うのは決まって何かに迷っている時だ)、「何かを決断する時には、論理より感情を優先する」みたいな選択肢が出て、それにどれだけ自分が当てはまるかを答える時に、いやどっちも大事だろ、そんなのどっちかに割り切れたら苦労せんわ、と思い「どちらでもない」にマークするとかいう純日本人的な答え方をしてしまった。論理的に適していない選択肢に感情を委ねることができない、いくら論理的にそうだからといって感情が乗らない方を選択するのに抵抗がある、みたいなこと。で、結局どちらも一致する場合にしか自信を持って選択することができていないのだろう、と分析してみた、今。まあ、そういう場合にも決断しなければならないことって生きていく上で往々にしてあって、感情を捻じ曲げるか論理を捻じ曲げることによって自分を納得させて生きていく(べきな)のだろう。と思う。

 

高校時代に、英語の先生が、なんでそういう文脈になったのかはわからないが、自分の座右の銘として「Every choise is right. 全ての選択は正しい。」という言葉を教えてくれたのが、なんかすごい心に残っている。多分僕は、その時にはその言葉の意味がわかっていなかったのだと思う。当時高校生の僕は何やらわからない自信がみなぎっていて、自分のした選択なんて正しいに決まってるだろ、と思っていたのかもしれない。でもそこから時間が経って、やっぱり最良でないかもしれない選択肢を選ばなければいけない状況になることもあるし、そういうことがあってからが本当の人生のスタートだ、みたいなこともわかってきた。だからこそ、自分の選択に自信が持てない時があるからこそ、それを正解にしていく、正解だと自分に思わせるような努力が重要なんだ、という意味なのかなと思った。

この言葉は今まで座右の銘にしよう、と思ってきたわけではなかった。今までは「幸せは途切れながらも続くのです」という言葉が好きだった(ある歌詞の引用)。これからは座右の銘は二本柱で行こうと思う(そんなことが許されるのか)。

 

音楽を聴きながら書いていたら、フジファブリックの「陽炎」が流れてきた。春夏秋冬のうち夏のシングル。夏に感じるえも言われぬ焦燥感を感じるような歌だ。

 

そんなわけで、この記事を終わろうと思う。締め方下手か。