まとまりのない日々

まとまりのない人間ですが

コロナが始まってからのこと

なぜだかわからないけど、このよくわからないブログを書くことが続いている。脱三日坊主まで、あと1日。ここ一ヶ月は塞ぎこむというか悩むことが多くなっていて、それが癖になっていた気がするから、それを外部に吐き出すことで少し悩む時間が少なくなるし、なんせ文章を書くという目に見える成果が出ることが心地よい。ブログの訪問数は増えないけど。

むしろ誰にも見られずに匿名で吐き出している方がいいかもしれない、と思うけれども、自分だってこのブログが何らかのきっかけで全世界で大ヒット、なぜか書籍化して億万長者に、というシナリオを望まないわけではない。そうなったらそうなってで人生が狂ってしまいそうで怖いけれどもそんなことは起こらないので安心している。

 

コロナが始まってから(始まってから、という表現は正確でもなんでもないのだが感覚としてはこんな感じである。あんまり「コロナ禍」という表現は好きではないのでこうした)、街が暗くなった気がする。これには物理的な暗さと雰囲気的な暗さがあるような気がする、うまく説明できないけど。

 

まず、そもそも物理的に暗くなった。店が8時とかに閉まることが多くなって、店の灯りがその時間に消えるからだろう。町の明るさというのはこんなに店の灯りによって担保されていたのか、ということを普段は意識していなかったので驚いた。その分街灯が明るくなったかというとそうでもないし、むしろ街灯も暗くなった気がする。よくわからない。近くに割と大きめの病院があるのだけれど、そこの病棟は灯りがコロナ前より確実に増えていると思う。コロナ前にお前は病棟の灯りを眺めていたのか、と言われると自信が持てないけれど。

 

雰囲気的な暗さについてはどうだろう。これは自分の心理状態によることが大きいのだろうと思う。コロナが始まる半年前ぐらいからある資格を目指し始めていたから、コロナが始まったことはむしろ自分にとっては都合が良かったのだと思う。集中して勉強できる時間が増えたし、勉強、という確固たるやるべきことがあったから自粛期間中でも暇を抱えることはなかった。誘惑が少なくなって勉強に打ち込めたのは大きかったのかもしれない。しかし、こんなに長く続くとは思っていなかった。最初の緊急事態宣言が発令された頃、私たちは夢見ていたはずなのだ。来年になれば。来年になればまあそれなりになんやかんや上手くいって、マスクなしでの再会を果たすだろう。自粛期間で会えなかった分の余白を埋めるように、好きなように集まり、喋り、酒を飲みまくっているのだろう。一年延期してしまったけど、人類がコロナに打ち勝った証としてオリンピックは開催されるし、選手たちの活躍を目の当たりにして私たちは感動の涙を流すのだろう。

しかしそうはならなかった。私たちが夢見ていた今年の夏になっても、ほとんどのことは元通りにはなっていないし、むしろ悪化した側面もある。ライブは中止、かろうじて映画は観れるが飲み会には一生行けそうにない。何をするにも人数制限人数制限、ソーシャルディスタンスソーシャルディスタンス、高齢者はワクチンが打てるようになって行動範囲は広がったのに、一番行動範囲を広げるべき労働者たちの年代にはワクチンが行き届かない(断絶を煽るような意図ではないが、そういう不公平感の拡大により断絶が進んだと感じているのは私だけではないはず)。

そんな現状を前に、資格試験の勉強が終わって一段落すれば元の状況に戻っているのではないかという期待は打ち砕かれてしまったのだ。今までどうやって生きていたのかわからなくなってしまった。今まで、休日とかは何をして生きていたんだろう。意味もなく出かけて、意味もなく人と会って喋って出かけて飲みにいっていたはずなのに。

こういう状況になって、前よりzoomとかでデジタルで気軽に繋がれるようになった、遠くの人とも気軽に繋がれるようになったのは進歩だよね、みたいな意見を聞く気がする。しかし、それは違うと思うのだ。それはなんらかの用件、とか口実があれば実際に会うことの代替手段としてデジタルな手段を用いるのが可能になったように思えてるだけ。でも例えば人との会話ってそういう口実とか用件がないと生まれるものではなかったと思うし、本来生身の会話から失われてるものは多いと思う。何より心理的な満足感とか。

 

あとこういう状況になって思ったのは、物理的な場所、とか居場所というのがどれだけ精神的に安定をもたらしていたのかということ。キャンパスに行けば、学部棟に行けば、体育館に行けば、研究室に行きさえすれば誰かがいる、誰かに会えるという状況がどれだけありがたいことだったか。そういう物理的な居場所が一番失われた被害者は大学生ではないか、と思う。居場所を失った、特に一人暮らしの大学生の精神状態は大丈夫なのだろうか(自分も含めて)というのはそろそろ真剣に心配である。

それなのに、観測している範囲では皆この状況を受け入れている気がする。そんな葛藤を表に出さずになんとか対応しているのだろうか、それとも人は慣れてしまうのだろうか。自分だけがいわゆる「新しい生活様式」に移行する覚悟ができずに、川岸のこちら側においていかれているような気がする。それが悲しいのだろう。

 

まあ悪いことばかりではない、というのは言える。長電話するような友達も増えたし。でもそれぐらいかも、と考えると圧倒的に悪いことの方が優っているな。

 

そんな感じのことを考えていた。

自粛期間中はずっと乃木坂の「I see・・・」という曲を聴いていた。ディスコ風のサウンドと、歌詞の無意味さ、PVの楽しさと可愛らしさに救われた。そろそろ秋元康は「ハイテンション」とか「ワロタピーポー」みたいなトンチキソングを作って世相を明るくしてほしい。

 

それでは、脱三日坊主を願って。